副社長は一本目のコントから噛んでいた
お笑いライブを見てきた。
寄席スタイルのライブはおろか営業のステージすら見たことがないのに初手がコント師の単独ライブ。
シャワーを浴びずにプールに入るようなものだと言いたかったけど、ちょっと違う気がするからやめておく。
ネタの内容についてはもう少し寝かせて浸る必要があるから、今日はエンディングトーク部分だけ書き残しておこうと思う。
一番血の気が多かったネタ“鬼食育”でのアドリブについて。曰く「千秋楽(さいご)だからテンション上がった」
“インド”のエキストラはバンドマン。ハケる時に段差に足をぶつけ鈍い音がする。札幌のエキストラはすぐに連絡がつかなくなる。そういう土地らしい。
中止、席減らし、手売り自粛によるグッズ売上伸び悩み等で来年は海を渡れないかもしれないので物販売り込みが本気。
海渡るどころか公演終了後誰かが首を吊るかもしれない。誰かが吊るとしたら真っ先に副社長を殺しにいくと宣言する社長。
自他ともに認める日本一飛沫が危険な芸人さらば青春の光。それに頷く大勢の客。
そんなわけで終わり。
客席に深々とお辞儀して帰る社長、そしてその頃にはすでにハケ終わっている副社長。
そんな晩ご飯だった
からあげを作った。
鶏肉は小さく切った方が火の通りに心配がなくていい。いつもより小さいからあげを食べながらそんな学びを反芻した。
食べながら反芻すると、胃に向かいたい食材と口に向かいたい学びが喉のあたりでせめぎ合うんじゃないかと思う。
食べながら反芻しない方がいいという学びを反芻した。
反芻が優勢だ。
後片付けのことを想像する
パーティーのイラストを描いている時、クラッカーを描こうとして気づいた。
これまでの人生でクラッカーを鳴らしたことが一度もない。
それどころかクラッカーを触ったこともない。
今『それどころか』と書いたが、クラッカーを触ったことがあるのに鳴らしたことはないほうが珍しいと思う。だからさっきの文はあまり良い書き方じゃなかった。
そもそもクラッカーは鳴らすという表現で合っているのかもわからない。クラッカーの仕組みを知らない。あれはクラッカーが鳴っているという認識でいいんだろうか。
テレビやネットの画像で見るクラッカーを思い返してみると、円錐の窄まった方からでた紐を引っ張っているように見受けられる。
紐を引っ張ると円錐の底面が開いて破裂音とともにテープや紙吹雪が一斉に飛び出す。
しかしこうやって見てみると、クラッカーの主題は音ではなく飛び出す紙吹雪の方だという気もしてきた。
つまり「クラッカーを鳴らす」というよりは「クラッカーを飛び出させる」と方が適当だ。
クラッカーを飛び出させてみたい。
そういえば今日は飲んでいない
最近はよく珈琲を自分で淹れて飲む。
牛乳を入れる時もあるが基本的にはそのまま飲んでいる。ちなみにこの一言にも『ブラックで飲む』と書くのは何だか気恥ずかしかったから『そのまま飲む』という表記にしたという経緯がある。
コーヒー豆は豆の形態によって保存の仕方に違いがある。挽かれていない豆は冷凍、粉は開封後冷蔵、お湯を注ぐだけのパックの場合は常温がいいとされている。
※これらは今僕が把握している方法であり、たいていこういう情報はちょっと目を離した隙に最適解が変わっている。そのせいで情弱だとかいう差別用語が蔓延しているのだ。
そして我が家には豆、粉、パックの三通り全てが存在している。よく使うのは豆とパック。豆を挽くのは楽しい。
豆を挽くのに使用するミルは手動と電動の両方持っているが、使うのは専ら手動の方だ。豆が粉砕されていくゴリゴリした感触がクセになるし、電動は音が大きくてびびる。
粉はあまり使わない。というかまだ封を開けていない。未開封のうちは常温でいいが開けると冷蔵庫に入れなければならないからだ。うちの冷蔵庫には生米が大半のスペースを占拠している。
もし今コーヒー豆(粉)を開封すると我が家の冷蔵庫はコーヒー豆(粉)と生米(3kg)で埋まってしまう。いくらコーヒー好きであっても他の食事が保存できなければコーヒーを楽しめない。コーヒーは食事ではなく嗜好品だからだ。
果たして短い間に何度『コーヒー』と書けば気が済むのだろう。自分の記憶が正しければ最初の一文では『珈琲』と漢字表記だったはずだ。
こうやって頼まれもしないアップデートを繰り返しては受発信する情報と豆の数だけ増えていく。
人間もTwitterも同じということだ。
3メートルおきにドアがあった
今日は久しぶりに学校に行く夢を見た。
全然母校とかではなく、『久しぶりに学校に行く』という感覚を持った状態で夢特有の奇妙な空気を纏った学校に行く夢だ。
まず生徒が全員なんらかの実在人物を模したキャラクターだった。そして無駄にドア数が多い校舎だった。
あと保健室が変なところにある。夢の中で具合が悪くなり、校内地図から保健室を探すのだが母校ではたいてい1階か2階だったのがその夢の中では5階にあった。病人にあんまり階段上らせるなよと思う。
そして5階の廊下沿いから左に窪んだ謎のスペースに保健室があり、意味不明なパーテーションで入り口が隠されていた。隠すなよと思う。
異様に低いドアノブを回して中に入ると、所長みたいな威厳を放っている保健室の先生が出迎えて、奥には研究員のような職員5、6人がパソコンで何か作業をしている。すごい。何がすごいって“圧”が。
夢の中の僕は未だ具合の悪いままだったが「治ったんで大丈夫です」と言って保健室を出た。
ドアが無駄に多い廊下を歩いているうちに目が覚めた。
しばらく顔を見せていない母校に行きたい。ドアの数を確かめたくなったからだ。
4月に入ったことの方が重要なはず
今日はエイプリルフールだった。
嘘の午前中の有効性をドヤ顔で語る痴れ者がTLに現れなくてよかったと安堵しつつ、今年も今日は嘘をつかなかったなと思った。
一年に一度なんてケチくさいことは言わずに週5のペースで虚言を撒き散らしたいのが本音で、厳密にいえばこの本音も嘘ではあるので、もう毎日がエイプリルフールでいいんじゃないだろうか。
エイプリルの意味がわからなくなってきた。
でも不思議と漫才は混ざらない。
同時並行で別の小説を読んでいると、異なる世界観の異なる展開が混ざり合って混乱することがある。一冊に集中すればいいのだろうが、読みたい本がたくさんあると一気に情報を摂取したくなるからいつも何冊かを手に取ってしまう。
タイトルと装丁から予測しておそらく似たテイストの本を一節交代制で読んでいたら、読破後は何とも形容し難い不安定な感覚に襲われた。
両方ロボットと人間の共存が描かれており、主役の諦観ぶりがよく似ていたので結末も明確に分けられない。我ながら気持ちの悪い遊びだと思う。
見たり聞いたりしたものが混ざるということはよくある。映像はこちらが大して努力しなくても受け取ることができるのでそうでもないが、中身のあるトークは聞き取って理解するために神経を使うので情報が交錯しやすい。きっと世の中の情報の中で一番混ざりやすいと睨んでいる。
さまざまな口達者のエピソードトークが情報的洪水として脳を占めるうちに、あたかも自分自身も似たような体験をしたという記憶にすり替わっていく。
真空ジェシカという人力舎の激烈おもしろ漫才師のネタ“ペーパードライバー講習”における登場人物の「前の車を運転していると思った」という感覚がそれにほぼ等しい。
だから僕はずっと昔から車の運転が怖い。