日記
ひとつ前の日記を見るといいことがあったらしいが何があったか全然思い出せない。
一方で最近はずっと悪い。
こうやって悪いことしかないみたいに書くと日々ちょびっと起きる良いことが悲しむので『最近はおおよそ悪め』くらいに留める配慮をしておく。すごく優しい。
もうずっと調子がよくない。そんで良いことがあったというひとつ前の日記の日よりも悪い日々の流れを汲んだ今日の日記の方が長いのもいかがなものかと思う。
そしてこのタイミングで前に書いた日に起きた良い出来事を思い出した。それと同時に、出来事の詳細を語ると年齢とか境遇とか生活の区分とかが色々バレるから書かないでおいたという配慮をしていたこともわかった。
僕は配慮しまくっている。なんにでも配慮する。
こんなに配慮する人間はいない。
配慮人間だ。
配慮のかたまり。
日記
今日は久しぶりに少し良いことがあったから、少し良いことがあった日として忘れないように書き残しておく。
少し良いことがあったよ。
言葉
存在感があってもなくても損得の総量はそんなに変わらないような気がする。今日はそういうことを強く思った、だからここに書いている、
あと粉類は冷蔵庫にしまわないと不安で仕方なくなるから、一段目から二段目まで薄力粉だらけになっている。仕方なくなるなら仕方ない。
地べたに寝転がって体温を逃がしたら体温が21℃になった。これは嘘。
日記
ときどき夜中に目が覚める。
起き上がるほどの覚醒状態にはない、薄目で横になって脳の映像記憶処理を邪魔している状態。
本当にごく稀に、夢と現実がうまい具合で混ざり合う時がある。先週は玄関のドアを開けたつもりで手元を見ると布団を上げていた。
布団を観音開きにしたのは初めてだった。いくら半分夢の中とはいえドアに対する認識が粗すぎる。
夜が明けて家を出るとき、今までやったことがないほどドアを注視してから鍵を閉めた。
万が一このドアが布団だったら困るからだ。
日記
肩の荷のごく一部が降りて、ため息をつくほどに姿勢が前傾気味になる。そんな気分で朝から晩の間を過ごした。
小さくても荷は荷だ。
取れた途端にずいぶん重力が易しくなったように思える。
今日は鱈鍋をつついていた。
昆布を久しぶりに台所の上の棚から引っ張り出した。
真っ先に魚の目玉を食べる癖はきっとこれからも続く。
主観の考えに過ぎないが、灰汁を取りきる必要はないと思う。あれは無限に出てくるから。
鱈も白菜もエノキも余った。汁は濾して明朝にでもまた温める準備を整えた。
湯通しした鱈と白菜に対してエノキの割合が多いように思えたので、ひとつかみを残してガーリックとバターで炒めた。調理して置いておけばそのうち食べる。
生活について書こうとすると自然と飯の話ばかりになる。
自分の生活のなかでひとに開いている部分が飯だけだから、だと思う。それ以外を書くときは相当捻り出している。
今日みたいな、自分のなけなしのユーモアすら付与していない日記らしい文章のタイトルはすべて『日記』にしよう。
今日は、そういう日記です。
新年だから
自分の生きているこの瞬間が、上半期か下半期かもわからないような奴が話しかけてくるんじゃない。
これは僕が尊敬している作家が言っていない言葉だ。
言っていなくてよかった。
新年だから、特にそう思う。新年は色んなことを思うものだ。
新年じゃなくても色んなことを思うけれど、新年に思ったということに意味がある。タイミングは何事においても重要なファクター(この言葉を使ってみたかっただけ)なのだ。
皮膚の隙間に絵の具とか入らないし
ついに天井の穴が塞がった。まだ部屋のいずこの水道から滴る微かな水音に怯える日々は続いているが、フラットな天井の下での生活はありがたい。
出来れば天井の穴の話はもうこれっきりにしたいと思う。
最近あったことというと爪の甘皮が減った。
気づいたら減っていた。たぶん乾燥によるものだけど、原因の究明に尽力するほどの強い気持ちは無い。
甘皮が減ったことによって、爪の根元が空いていると妙に気になるものだということがわかった。指の皮や口の中の皮膚は自ら進んで減らすくせに、爪の甘皮だけはとても気になる。
厳密には指と口の中の皮も減らしたくはない。だけど、殆ど無意識のうちにめくったり噛みちぎったりしてみっともない姿になってしまうのはひどく自己嫌悪を誘発するのであまり考えないようにしているのだ。
なんにせよ皮膚は減らない方がいいと思う。
皮膚があった方が、ないよりも熱い物とか持てるし。