夜更ししないで、早く寝る

文を並べると文章になります。

着実に散歩が趣味になり始めている

外を歩いていると脇道に何か動いているものが見えた。

最近近所を歩いている時によく見かける猫かと思っていたら雀だった。

雀が8羽くらい集まって動いていた。そして二歩ほど近づいてみると一斉に飛び立った。

悪いことをしたと思っていたら1羽だけ飛び立たずに草をついばんでいた。

この雀は他の個体より肝が座っているのか、それともただ反応が鈍いだけなのか、考える時間を設けようと思った。

とりあえず一旦トイレに行った

なかなか寝付けなくて考え事が止まらない。

布団の中で浮かんだ断片的な発想が新しい発想に押し出されていくという、俗に言うロケット鉛筆方式。

目を開けたり閉じたりを繰り返していると「ノーカン」と「納棺」の聞き間違いから始まる与太話が思い浮かんだ。

その時、棺は英語で何と言うのか考えていたら『ダストボックス』が思いついて、なんかあんまりよくない時間に入ったなと感じた。

早く寝付きたい。

結局なんで渡されたのかわからない

靴を買いに行った。

前に履いていたのと同じ型の靴なので試着もそこそこに購入を決めた。「これにします」と店員さんに言うと、「ではこれを」とプラスチックの番号札を渡された。

アミューズメントパークのコインロッカーに付いているような丸くて薄い番号札だ。レジ前に人が並んでいるわけでもないので数字は“1”。

人がいないのになぜ番号札を渡されたのかよくわからない。まあ包装とか他の客への対応とか、店員さんも色々準備があるんだろうなと思ってレジの近くで革靴を眺めることにする。

 

何分か経った。相変わらずレジの近くに客はおらず、別の店員さんが新商品か何かの話をしていた。僕は革靴を見ていた。

 

それから店内を一周して再び革靴のところに戻る。レジに客はいない。しかし番号札をもった人間が呼ばれる様子もない。

 

しばらくして革靴のブランドをいくつか覚えられるようになったが、依然呼ばれることはない。

そして、ついにレジに客がやってきた。

しかし見てみるとその客は番号札を持っていない。というか番号札を持っていたとしても“1”の僕が先に呼ばれるはずだ。つまり番号札に意味はないということだった。

 

前の客がお会計を済ませたのを見計らって革靴コーナーからレジに移動して番号札を店員さんに渡す。番号札をくれた店員さんとは別の人だ。

すぐにお会計は終わった。良い買い物ではあったので嫌な気はしなかったが謎が残ってモヤモヤする。

 

番号札を渡してきた店員さんを目だけで探して見てみると、PUMAのスニーカーを見ていた。PUMAのスニーカーの前にコンバースをお会計してほしかった。

あと革靴が欲しくなった。

座王を見たい

たまには日記らしい日記を書いてみようと思う。

今日は忙しい一日だった。

常に動き回るその忙しなさは睡眠と推進を同時に行うマグロの如き様相だったろう。なるほど、赤身が多いから膝に謎の内出血がある。

あと帰り道に猫がいた。

なんだかよく猫を見かける気がする。理由はないけれど、前に見た猫とは別の個体だったらいいなと思う。

帰宅すると溜め込んだ疲れが一気に放出された。家にいるのにもう帰りたいと思った。

よく色んなことを思う一日だ。

そして明日のために必要なことを全て終えてベッドの布団の上に寝転び、プライムビデオでバラエティ番組を見る。

人はこれを至福の時間と呼ぶ。

しかし簡単には安息を得ることはできない。我々には乗り越えなければならない壁が存在する。

そう、ザコ回線という名の障壁が。

その後すぐにペン買って帰った

今日は文房具屋さんでペンを探した。

ペン売り場には試し書きの紙が置いてある。試し書き用のペンではない売り物で試し書きをする人にどうにか法的な措置をとることはできないかと考えながら紙をめくる。

何か面白いことが書いてあったら日記が潤っていいなと思ったのだ。もしくは全然面白くないことが書いてあってもいい。

少しの期待感を胸に紙をぱらぱらとめくっていく。驚いた。面白いことが何も書かれていない。そしてつまらないというほどのことも書いていない。

キャラクターとか悪口とか『あ』とか、何ひとつ感情が動かない内容しかない。困った。

とりあえず試し書き用のペンで何か書くことにする。

『冷蔵』と書いておいた。

全然面白くない方の内容が潤った。

新話、架空の談義

休日は平日に比べて宅配業者が頻繁にマンションを行き来する。

チャイムが鳴るのは誰か人が来た合図だと思っていた認識の甘さを反省した。訪ねて来るのは人とは限らない。

 

訪問者は座布団にすら遠慮をして、カーペットの上に直接座り込んだ。

どうやら思ったことがすべて口から溢れてしまうらしい。背格好は壺にそっくりだ。

恰幅が良くて肌が陶器のようだとかそういう喩えではなく、壺そのものの形をしているという意味で背格好が壺にそっくりだ。

ドアを開けた瞬間食器がぶつかるような音がした時はさすがに面食らったが、ある日家に門限の早いギターが訪ねてきた友人の話を聞いていたので、壺が玄関にいるということ自体にはさして衝撃はなかった。

特に名乗りも無かったので彼(?)の事は壺と呼ぶことにする。

 

壺は常に話し続けていた。人の形をしている私とは少しばかり体のつくりが違うらしく、話す時には口(壺でいうと上から覗き込んだ時に見える穴の部分)を動かすことはしない。

音とは空気の震えが伝わって届いたものらしいが、壺の『言葉』は“音と空気の震えが届く”という感じがした。それは大聖堂の巨大なピアノを思わせた。大聖堂など行ったことはないのにも関わらず。

 

なにせ思ったことが全て声になる。部屋の湿度が低いことやタンスが指一本分開いていることも気にかかるらしく、それらが相談の隙を縫うように飛び出してくる。お陰で話している内容はほとんど頭に入らなかった。

 

私は「よくわからないので、筆談にしてみてはどうだろう」と口にした。壺は自らの体が壺であることの必然性、人の形との違い、そして部屋の窓の拭き掃除が必要なんじゃないかということを言った。

 

壺から不快さや傷ついた様子は感じられなかったがその口から溢れてくる音を聞き取ることはできなかった。

気まずさを感じて「思ったことを咀嚼してから口にする力があったからといって余計なことを言わないわけではない」と反省していたら、それが声に出ていたようだった。

矛盾、とどこか嬉しそうな空気の震えが部屋全体に響いて壺は帰っていった。時刻は15時。

壺もまたギターと同じように門限が早いのかもしれない。

間取り図にベランダがあると嬉しい

部屋が寒いとベランダに出たくなる。部屋の中が寒いということはベランダはもっと寒い。そんな寒いところにはあまり居たくない。しかし無性にベランダに出てその寒さを噛みしめたくなるのだ。

これは夜眠る前に冷蔵庫が閉まっているか気になって執拗にドアをベタベタ触ったり、誰にも全く用もないのに突然誰かに電話をかけるふりをするのと同じタイプの悪癖だといえる。

自分で言うのもなんだが冷蔵庫は目視で確認すればいいし大抵閉まっているからそんなに触らなくてもいいと思う。

 

ベランダに出ると案の定寒かった。両端を薄い壁で囲まれているとかお構いなしに吹き抜ける風がめちゃくちゃ冷たい。風が止んでも普通に空気が冷たい。3月って暦のうえでは春じゃなかったかなと思いながら、タイミングを見計らって車道を横断する青年を見ていた。

 

暦を調べると3月は春だった。それがどうでもよくなるくらい4月が夏扱いだということに驚く。毎年あんなに寒い4月が夏だなんて、暦とは価値観が合わない。バンドを組む相手としてはあまりよくないと思った。

 

無事にベランダの寒さと暦の方向性を確認し終わったので部屋に戻る。ベランダの蓄積があるため幾分暖かく感じた。この瞬間のためにベランダに出た、と言うのは過言である。

 

部屋が寒いと布団に入りたくなる。